みなさん、こんにちはこんばんは
本日はキエフでのトランジット観光の続きです
1番の目的地「チェルノブイリ博物館」へ向かいます
「チェルノブイリ」というワードは耳にしますよね
原子炉が爆発したことも知ってます
今現在でも立ち入り禁止区域であるほどの汚染されたしまったことも知っています
起こってしまった理由と状況を学ぶ機会があるので博物館に行ってきました
負の歴史を学びましょう
そんな話
事故の経緯に関してはザックリと本記事後半に記載しておきます
文章だけになっているので、ご興味があればご一読ください
また、博物館でのオーディオガイドと資料をもとに記載しているので間違いがあればご指摘いただければ修正します
チェルノブイリ博物館
入館料は24UHA
日本語のオーディオガイドもあります60UHAです
休館日は、日曜日と毎月最終月曜日
日本語ありの公式サイト
場所はここ↓
一階受付前展示室
館内に入って受付で入館料を払いますが、個人向けのオーディオガイドが出払っているとのことで30分ほど待つことになりました
オーディオガイド無しならすぐに入れると言われましたが、日本語もあるとのことでしたので待つことにしました
受付がある一階は福島宣言と共に福島についての展示があります
第一展示室
受付の前からオーディオガイドは始まります
展示室がある2階への階段には聖書のリンゴの木が根こそぎにされた絵
76の立ち入り禁止となった都市名の看板が飾られています
2階の展示室に入ると事故が発生した時間で止まった時計があります
1時24分
原子炉の模型で当時使用していた構造を説明されます
多くの作業員の方々の写真が掲載されています
その中にシールが貼られている方々は汚染作業時に亡くなった方々でした
最初の展示は
・事故が起こった経緯
・事故当時の様子
・事故を隠蔽しようとしたソ連の話
・作業員がどのようにして汚染作業をしていたのか
作業員や医療従事者の方々の遺品と共に細かくオーディオガイドが語ってくれます
1つ1つの説明を聞いていると、その方の人となりが伝わってきて、壮絶な人生が伝わってきていたたまれません
きっと被曝で死ぬと分かっていても汚染作業や看護に明け暮れる日々を過ごしたんだと
果たして自分にはそんなことが出来るのかと
考えさせられる展示でした
希望を表すリンゴの木が枯れています
事故によって避難した方々が自宅に帰る希望、生きる希望などが叶わなかったことを表現しているそうです
この下にはチェルノブイリを中心とした模型の地図があり
放射線量が明示されています
異常な放射線量で数時間で致死量に達してしまうほどの中で汚染作業をしていたことがわかります
人体だけが影響を受けているわけではありません
事故現場付近の植物からも高濃度の汚染線量が計測されているため土壌自体が汚染されている
ただ、この松が放射線を吸収してくれたためキエフの被害が軽減されたそうです
松の木はオレンジ色に変色し「オレンジの森」と呼ばれるようになりました
動物にも影響を及ぼしています
双生児の子豚は、頭が1つになる奇形だった
奇形の出生率が3倍以上になったそうです
第一展示室の最後は日本のこと
広島と長崎、そして福島
原子力爆弾と原子炉爆発事故での話が展示されています
日本人として、もっとしっかり考えるべき問題なんだと
身近にあるはずの事なのに見て見ぬふりになりがちな自分に戒めをと怒られている気分になります
第二展示室
チェルノブイリと書かれた看板が入り口に飾られている部屋に入ると
作業員が着用していた防護服などが展示されています
中央にはノアの箱舟を模したオブジェが
中にはぬいぐるみが置かれています
未来を生きる子供たちに希望が持てるようにと
自国での資源調達が難しいのはわかりますが、日本の面積から考えると原子炉の数は多いのかもしれません
もちろん、自分もその恩恵を受けていることは重々承知ですが、難しい問題です
最後に博物館を通して学んだ知識を試せるクイズがあります
もちろん全て一番上を選択してみます
2問正解です
正解したら当時の写真が見られるようです
真剣に解答した際の写真が見たい方はご連絡ください
以上が、チェルノブイリ博物館の展示です
1つ思ったことがあります
オーディオガイドのおじさんは噛み噛みなんです
笑ってはいけませんが本当に気になる
チェルノブイリ原子力発電所爆発事故
1986年4月26日1時23分
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国時代にチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた爆発事故
国際原子力事象評価尺度(INES)ではレベル7(7が一番上)となります
(福島第一原子力発電所事故もレベル7で、レベル7はこの2つのみ)
4月27日
原子炉がある30km圏内のクリペチ市に避難勧告
数時間の内に避難は完了したが、避難内容は知らされず多くの方がキエフに避難
3日分の衣類食料の一時避難と言われるが永久のものになる
5月2日
クリペチ市以外の地域の避難が決定し6日に完了
総数11万6千人が避難
爆発後、ディクビダートル(処理に従事した方)の45名が亡くなり50名が障害に
クリペチ市の放射線量は毎時15ミリシーベルトと言われていたが、もっとも高い放射線量は170ミリシーベルトを超えていたそうです
人体が1年で自然に受ける放射線量は1.5ミリシーベルト
蓄積量が
1,000ミリで嘔吐や悪心が起こり
2,000ミリで5%に致死量になり20人に1人が死亡するレベル
西ヨーロッパで異変に気づいたのは2日後の28日で、スウェーデンの原子力発電所の職員の靴から高線量の放射線物質が検出されたことがきっかけとなる
28日中にはスウェーデン政府の外交官がソ連政府と接触し、ソ連内で原子力事故が発生した事実がないか問い合わせたが、ソ連政府はその可能性を否定する回答を行った
スウェーデン側から国際原子力機関(IAEA)に事態を報告する意向を伝えられると、一転してチェルノブイリ原発で事故が発生した事実を認めた
1986年にソ連政府が国際原子力機関に提出した報告書によると
事故の原因は運転員の極めて信じがたい規則違反の積み重ねで起こったとしている
4月25日
4号炉は予定されていた点検修理のため出力降下を開始
翌4月26日
予定以下の出力となっていたがそのまま実施することに
運転員がORM値(制御棒の状態を数値化したもの)が直ちに炉の停止を要する値になっていてることを知りつつも強行
原子炉を停止する信号を運転員が解除していた
と人的要因の報告書となっています
1986年の報告書に基づいて非公開裁判で6名が罪を被り服役させられた
が、1991年にソ連最高会議の要請で行なった再調査での報告書では、人的要因は濡れ衣で、炉の欠陥が原因であると結論を出しました
モスクワの赤の広場に設置しても安全と謳っていたそうですが、
結果安全では無かった原子炉が16基も稼働していた
1990拡大ルクセンブルクの1.5倍が立入禁止区域は196km圏内で
25年経っても処理できておらず未だにゴーストタウン
広島や長崎の100倍の汚染量だそうです
最後に
チェルノブイリに行くツアーもあるそうです
でも実際に訪問することは中々難しいかもしれません
ウクライナに渡航する際は是非チェルノブイリ博物館へ訪問してください
初めてしっかり学べた気がします
しっかりと考えさせられる凄く為になる施設でした
広島も長崎も修学旅行で訪問したことある方がいらっしゃると思います
自分もそうです
大人になってから改めたて訪問した時は当時と違う感情になりました
また行ってみようかな
世界人類が平和でありますように
本日も最後まで読んでいただきありがとうございました
うまく纏まらない記事でしたが
少しでも感じて頂けることがあれば幸甚に存じます